まるで、夢見るように走っていた。
はやく、もっとはやく。
光にあふれた世界を駆け抜ける。水の粒子を含んだ風が薫る。
疲れはない。身体は軽い。どこまでも遠くに行けるような気がしていた。
目を閉じれば、身体の奥底から鼓動が響く。千切れそうだった手足の感覚がだんだん希薄になっていく。
焼けつくような肺の痛み、も。何も気にならないほどに、きっと私は夢見ていたんだ。
薄暗い昇降口を抜け出た瞬間、強い日差しに視界を焼かれた。
くらり、と。軽い目眩を覚えて額を押さえる。うつむいて小さく息を吐くと、熱のこもった空気がわずかに揺らいだ。
少し息苦しいな、と思う。受験勉強であまり日に当たっていないせいだろうか、夏の太陽が酷く眩しい。
「あ、真季先輩!」
明るい声が突き抜けた。グラウンドの方から駆けてきた少女が、真季の立つ段の上にひょいと飛び乗る。
半袖のTシャツに、陸上部のジャージ。日に焼けた腕がすんなりと伸び、小柄な体躯は子犬めいて弾んでいた。
「水穂。部活中?」
微笑んで、己の胸ほどの高さにある頭を撫でる。汗で少し湿った髪の毛が指の間を通り抜けた。
「はい! 職員室に記録表取りに行くところです。先輩もたまには練習に顔出してくださいよう。今年、結構いい感じなんですよー」
水穂が軽く頬を膨らませて強請る。拒絶されることを想定していない甘えた仕草に、真季は少し苦笑した。
「そう、じゃあ今度差し入れでも持ってくから」
「わ、ほんとですか?」
少女がぱっと表情を明るくする。見上げてくるきらきらした大きな瞳。
可愛いな、と思う。ごく自然に。
「ほら、もう行きな。みんな待ってるよ」
それなのに、少女の背を見送って出るのは深い溜息なのだ。
徒労感が肩を重くする。なぜなのだろう。真季だってこの春まではあの白いジャージを着て、水穂と一緒にマネージャーをやっていたのだ。あの光の中にいたのだ。
ならばどうしてこれほどまでにあの世界を眩しいと思うのだろう。
白く灼けたコンクリートに向かって、もう一度深く溜息を吐く。夏の太陽に焦がされていく。そんな慣れていたはずの感覚すら酷く不快に感じて、込み上がる吐き気を押さえつけて目を閉じた。
心臓が止まったかと思った。
息を呑む。否、呼吸を停止する。その姿を見た瞬間、視界がそれ以外のものすべてを切り捨てた。
少女が駆ける。
他の誰よりも綺麗で美しいフォーム。軽やかで、しなやかな。
力強くなんてなかった。そんな鈍重なものではない。
重力すら無視して。
目の前を、風が、走る。
「はるか、自己ベスト!」
響き渡った声に現実に引き戻されて、真季は呆然と瞬いた。
気がつけば、先程の少女はすでにゴールラインを抜けている。どうやらそのまま休憩に入るようで、タオルと飲み物を受け取り木陰に向かっていた。
無音の世界に急激に音が戻って、微かに耳鳴りがする。そっと知らぬ間に詰めていた呼気を吐き出した。額に汗が滲む。目を閉じれば、まだ瞼裏に風の残像がちらつくようだ。
光が眩しい。
じり、と。頭と、もう痛むはずのない右膝が痛んだ。
意味もなくジーンズの上から足を押さえる。そこに隠れているはずの醜い傷跡を思う。
馬鹿げた幻痛だ。差し入れの詰まったビニール袋を持ち直して、軽く頭を振る。
もう二年も前の傷だった。日常生活には何の支障ないし、無理をしなければ走ることだってできる。
そう言い聞かせて(でも、何を?)、目を開くとこちらに気づいて手を振る影があった。
「真季さん!」
練習後の疲れをものともせず駆け寄ってくる少年に、元気だなあと苦笑する。
「調子はどうだい、部長さん」
「好調っすよ。真季さんこそ、受験勉強の方、どうですか?」
「痛いとこ突くなあ。修介、それは訊いちゃいけないお約束だぞ。ほら、約束の差し入れ」
「おお、みんな、真季さんがアイス持ってきてくれたぞー!」
後半は背後を振り返って叫ぶ。木陰の人だまりから歓声と拍手が湧いた。
「相変わらず芹沢顧問はサボリか」
歩きながらざっとあたりを見渡すが、ひょろひょろと背ばかりが高い中年教師の姿はなかった。修介が軽く肩を竦める。
「まあ、あの人は引率専門ですから。真希さん、今日は練習見てってくれるんでしょう? 指導頼みますよ」
「修介ー! アイス溶けるから早く!」
休憩する部員たちにスポーツドリンクを配っていた水穂が大声を張り上げる。
「水穂のマネっぷりも板についたみたいだな」
真季が笑うと、修介が情けなく眉尻を下げた。
「勘弁してくださいよー。ほんと、最近アイツ真季さんに似てきて……」
「よし、ダッシュ」
掛け声と同時にぽんっと背中を押すと、反射的に修介が走り出す。差し入れの袋を胸に抱え込んだままダッシュする姿を見て、真季はさらに笑い転げた。
本当に、可愛い後輩だ。あれで部長をやれるのか多少不安でもあったのだが、どうやら部員の信望も厚いらしい。盛り立ててやらなければと周囲に思わせるのも人徳だろう。
「先輩もアイスどーぞ」
日陰のパイプ椅子に腰掛けた真季に、水穂がピンクのカップを手渡す。本来なら顧問の居場所であるはずのこの椅子は、在部当時真季の指定席だった。
「ストロベリーで良かったですか? バニラとチョコも残ってますけど」
「ああ、これでいいよ。ありがとう」
先輩が買ってきたんですから、ありがとうは変ですよう。
言って、きゃらきゃらと水穂が笑う。
それに笑い返していた真季の頬が、ふいに強張った。
「……水穂?」
若干のぎこちなさを残したまま笑んで、少し離れて地面に座っている部員たちの方を指差す。
「あの、梓の隣りに座ってる髪短い子、誰?」
「梓の隣り?」
水穂の目線が指の先をたどり、バニラアイスを頬張って談笑する少女を捉える。
「ああ、はるかですか? あの子ちょっと入部時期が遅かったから、先輩は会ったことないんでしたっけ? 高校から陸上始めたらしいんですけど、一年の中ではダントツですね。得意なのは二百メートルだけど、体力つければ長距離もかなりいいとこいけるんじゃないかな」
「すごく綺麗なフォームをしてる。あれで高校から?」
「さすが先輩。もう目をつけたんですか? じゃ、ついでにいいこと教えてあげましょうか」
言って、至極楽しげに少女は笑う。
はるか、修介のカノジョなんですよー?
「もう、びっくりしましたよ。あの子みんなの前でいきなり告白するんですもん。まあ、オトモダチから始まったんですけど、今は無事に、って先輩?」
「……ん?」
どうかしました? 水穂が訝しげに眉を顰める。
「何だか上の空ですよ?」
木漏れ日が地面に横たわった影の中をちらちらと揺れていた。じっとその乱舞を見つめながら、真季はゆっくりと口の端をつり上げる。
「何でも、ないよ」
言って、そっとそっとそっと、微笑んで、目を伏せた。
あの日は桜が咲いていた。
よく晴れた風の美しい春の日で、それはもう盛大に花弁が舞っていたから、今でもはっきりと覚えている。
あの日、彼は泣いた。
彼は、修介は、中学校の陸上部で真季を一番慕ってくれていた後輩だった。 高校でも一緒に走ろうと約束して別れて。けれど、高校一年の夏、陸上の県大会直前、真季は右膝に致命的な欠陥を負った。
練習中の事故だった。貧血気味の部員が倒れる瞬間に巻き込まれたのだ。
競技として走ることはもうできないと言われたけれど、どうしても陸上から離れがたくてマネージャーに転向した。
修介が初めて高校の陸上部に見学に来たときのことを、真季は今でもはっきりと覚えている。
走れなくなった、と。
それまで隠していた事実を告げた真季に、修介は絶句して。
そうなんですかと震える声で言って無理やり微笑もうとして失敗して。それから無言のままにぼろぼろ泣き出したのだ。
何でおまえが泣くんだと笑いながら、多分真季も泣いていた。
嵐にも似た感情。大声で叫んで、手当たり次第に何もかも引き裂いてしまいたいような。けれど、それと同じくらい、穏やかで幸福な気持ちでもあった。
わかってくれたのだ、と本能で悟った。
真季は走ることを愛していた。誰も本当の意味で理解してはくれなかったけれど、記録や結果なんてどうでも良くて、真季は走ることそれ自体を本当に愛していたのだ。
一度途切れた線は二度と繋がることはなく、確実に変化した風景には気づかぬ振りをしたけれど、修介はいとも容易く真季の強がりを打ち砕いてしまったから。
だからきっと、涙なんて流れなくても、あの日真季も泣いていたのだ。
無機質な電子音が鳴り響いて、びくりと身体が跳ねた。
強制的にまどろみから引き剥がされる。勉強疲れで少し休憩するつもりが、どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。ベッドの上に上体を起こして、鈍い頭を振る。
時計を見ると午前二時前だった。
音の発生源である枕元のケータイは受信ランプを点灯させている。いつもはこれくらいで目が覚めることはないのに、と思いながらメールの受信ボックスを開いて顔を顰めた。
奇妙な空白。本来なら必ず表示されるはずの送信元メールアドレスが表示されていない。
故障、だろうか。しかし、他のメールはきちんと表示されているし、動作自体におかしなところもない。
「あなたの願い叶えます」。普段なら無視する、いかにも怪しげな件名になぜか誘われてメールを開いた。
願い事を書いて返信して下さい。
金銭等の要求は一切致しません。
そんな胡散臭い文句に続いて、願い事に応じた対価を頂きますのでご注意ください、とそんな文字が連なっていた。
「……何だ、これ」
よくある架空請求の類のメールにしてはあまりにも突飛な文章だが、悪戯にしても意味があるとは思えない。
考えるまでもなく削除しようとして、ふと手を止める。
願い事。口の中で呟いて、何となく右膝に手を当てる。
昔のように走れたら、と考えないわけではなかった。けれど、たとえ足が健常に戻ったところで無駄だろうとも思う。
あの頃の真季とは決定的に何かが違っていた。諦めや絶望や怠惰。そんなものに混じって、何か大切なものが手の先から足の先からすべり落ちてしまった。
そしてそれはきっと、一度失くしたらもう戻らないものなのだ。
昼間見た少女の姿を思い出す。はるかという少女のことを思うたび、内側から引き裂かれてしまいそうな苦しさを覚える。
いっそ切り開いて暴いて晒してくれれば楽になれるのかもしれない。こんな濁って重たい身体では、昔のように走ることなんてできやしない。
それはとても悲しい認識だった。とても悲しくてとても寂しい。
だから。
指先が動いたのはほとんど無意識に近かった。
迷いはない。澱みなく爪先が文字盤を掠めた。
やがて軽やかなメロディと共に、ディスプレイの画面が切り替わる。
『送信完了』の文字が電光の下で閃いたのは、午前二時ちょうどの出来事だった。
陰鬱な色をした雲が空を覆っていて、まだ昼下がりだというのに酷く薄暗い。
湿り気を帯びた風に、真季は塾の玄関口で足を止めて天を振り仰いだ。
鈍色の雲間を白光が裂く。数秒遅れて轟音。 雷を交えながら、見る間に勢いを増していく雨脚に舌打ちをする。今日は傘を持ってきていないのに。
仕方がない、置き傘でも借りようと踵を返しかけたところで、ケータイの着信音が鳴った。
初期設定から変えていないこの電子音が鳴ることはほとんどない。通学鞄からケータイを引っ張り出して、ディスプレイに表示された名前に軽く驚きの表情をつくる。
「──もしもし?」
水穂? どうしたの、珍しい。
言って、玄関の横の壁にもたれかかる。埃っぽく黴臭い空気が鼻先を掠めた。
肩から鞄を下ろしてセーラー服の襟を正したところで、せんぱい、と水穂が泣きそうな声を出した。
「何。どしたの」
ただならぬ様子に顔が強張る。わざわざ電話してくるなんて、よほどのことがあったのか。
「水穂?」
努めて穏やかに先を促すと、水穂は途切れ途切れに言葉を紡ぎ出した。
「──え?」
ふっと。全身から力が抜けるのをこらえる。座り込んでしまいそうになるのを、ケータイをきつく握りしめて耐えた。
まだ駄目だ。小さく息を吸い込む。電話口の向こうの後輩の顔を思い浮かべて、ぐらぐら揺れる頭を必死で動かす。
まだ折れちゃいけない。
「──うん。うん、とにかく落ち着いて。あたしもすぐ行くから」
うん、じゃあ。告げて、通話を終える。
そして今度こそ、真季はその場にずるずるとしゃがみ込んだ。
すぐ側を連れ立った生徒が笑いさざめきながら通り過ぎていくのをぼんやり眺めながら、先程の水穂の言葉を反芻する。
『修介が、事故に遭ったんです』
震えた声で水穂は言った。
『昨日、はるかと一緒に駅に行く、途中。車に轢かれたって。あたし、は、さっき芹沢顧問から聞かされて』
『修介もはるかも、県大会は無理、で。二人とも足を、』
右膝を、やられたって。
真季さん、と。
予想外に穏やかな顔で修介は微笑んだ。
やけに薄汚れた印象を受ける病室の、再奥のベッドを遮蔽する生成り色のカーテンを引きかけて、でも真季はそれ以上中に踏み入ることができなかった。
動けない。何も言えない。
混乱しているのだと思う。言葉を紡ぎかけた咽喉が引き攣る。
ベッドの上に身を起こした修介の、右足を覆う白いギブス、だとか。病院の水色の寝巻きを着た姿だとか。
そんなものに、酷く動揺している。ここは病院なのだから、当たり前のことなのに。
「真季さん?」
動かない真季に、修介が困惑した声を上げる。
真季は何も応えることができない。だってだってだって。意味のない思考ばかりがぐるぐると頭の中を回る。
だって、大会前なんだ。夏の県大会前。調子いいって言ってたじゃないか。なのに何だ、その忌々しいギブスは。そんな陰気くさい、センスの欠片もない寝巻きなんか着て。
「真季さん、とにかく座ってくださいよ」
反射的に逃げそうになる身体を押しとどめて、丸椅子に腰掛ける。いったん座ってしまえば、今度は立つことなどできそうになかった。濡れた制服のせいだけではなく、身体が重たい。
「みずほ、は」
強張る指で髪をかき上げて、ようやく吐き出したのはそんなどうでもいいような言葉だ。核心に触れるのが怖いのだろう。
「水穂ならさっき帰らせました。真季さんが来るまで待ってるって言ってたんですけど、あいつの家遠いし。真季さんは? 今日は塾ないんですか? あれ、でも制服ってことは学校?」
「いや……、今日は学校で面談があって、そのまま塾行ったけどもう終わったから……」
沈黙。
口を噤んでうつむく真季に、修介が居心地悪そうに身じろぎする。
二人して押し黙るなど、滅多にない。真季だって何か言わなくてはと思っているのに、思考が凍ったまま動かなかった。
ふいに、修介が小さく溜息を吐いた。びくりとセーラー服の肩が揺れる。
「そんな、顔。しないでくださいよ。俺なら大丈夫ですから」
苦笑混じりのやわらかな声音。真季は上げかけた視線を無理やり押しとどめる。
今、顔を見たら、きっと泣いてしまう。
交通事故に遭って、大会も駄目になったというのに、どうしてこいつは。
「本当に、大丈夫なんです。俺もはるかもちゃんと完治するし、後遺症も残らないって。今度の大会は駄目だけど、来年にはまた走れます」
修介は真季の葛藤には気づかないまま、言葉を続ける。真季が自分の怪我と今回のことを重ね合わせて沈んでいると勘違いしているのだろう。
「俺は、」
ふと、声調が落ちる。
「はるかだけでも大会に出してやりたかったんですけど」
アイツは初めての県大会だし、という独白めいた呟き。
醜い、と真季は唐突に思う。はるかという名前が彼の口から出ることに、この状況で嫉妬するなんて何て醜いのだろう、自分は。
けれど、次の瞬間。
「初めてはるかが走るのを見たとき、真季さんに似てると思ったんですよ」
真季は完全に言葉を失う。
呆然と顔を上げる。視線がかち合うことはない。修介は軽く目を細めて、窓の外を見ていた。
夕立はすでに止んでいた。先程までの豪雨が嘘のような夕焼け。
その光の色を、光に照らされた横顔を思う。もう、とても、遠い。
「タイムなんか全然比較にならなかったんですけどね。でも、フォームというか身のこなしというか、とにかくそんなものがどことなく似てて。本当に綺麗に走るから。だから」
真季さんに似てると思ったんです。
「──ごめん」
「え?」
言葉は勝手に唇の隙間から零れ落ちた。
向き直った修介が目を見開いたのがわかったけれど、もうどうしようもない。
微笑みを浮かべようとした顔が歪む。
目の奥が熱い。視界があっという間に滲んで溶けた。
「え、え? あ、嫌、でしたよねこんな話」
突然顔を覆って泣き出した真季に、修介が慌てて謝罪する。真季は無言で頭を振って違うのだと示す。
願ったのは、真季だった。
嫉妬して。悲しくて寂しくて。あの少女が走れなくなってしまえばいい、と。
願ったのは、他でもない真季だった。
走るのが好きで、修介のこともきっと好きで、真季がどんなに喘いでも手に入れられなかったものをあっさり掴んでしまった少女が、憎らしくて仕方がなかった。
あの、奇妙なメールが本当に願いを叶えてくれたのだとしたら、修介が巻き込まれたのは対価なのだろう。
否。そんなことはどうでもいいのだ、本当は。
あのメールが悪戯メールだったところで、本質的には何の慰めにもならない。願うこと自体が罪だった。
「どうしたんですか? 俺、何かしました?」
遠慮がちに触れてくる体温に涙があふれる。
また一つ、光を失ったということだけは痛いほどわかっていた。
もう戻れないのだとそればかりが頭をよぎる。
もう、好きだったと伝えることすら許されない。
「ねえ、泣かないでくださいよ。大丈夫ですから。何もかもきっとうまくいきます」
懸命に宥める修介に、真季はただただ首を横に振る。
そんなんじゃない。そんなんじゃないんだ。
こんな、風に。優しく触れられていい人間ではないことを知っていながら、その手を振り払うこともできない自分は、本当に、何て。
醜い、の、だろう。