花瞼


 衝撃は、突然だった。
 鈍い音とともに額に激痛が走る。視界が真白に焼き尽くされて、一瞬の意識の混濁。
 思わず膝を折ったとき、どこか慌てたような声が耳に入った。それからばたばたと逃げ出すような足音。
 明滅する視界に血のついた拳大の石ころが映る。石を投げつけ、それが予想外に頭に当たったことにうろたえて逃げたのか。
 下唇を強く噛み締める。たいしたことじゃない、と自分に言い聞かせると、幾分呼吸が楽になった。砂利だらけの地面についた己の両手を視認する。
 立ち上がりかけて、頭の奥をかき乱されるような痛みに再び膝をつく。手の甲で傷口に触れると、ぬめりと嫌な感触がした。
 少し吐き気がする。また意識を飛ばしてしまいそうだ。
 熱っぽい息を吐き出したところで、近づいてくる足音に身を強張らせた。
「おい、大丈夫か?」
 咄嗟に後ずさりかけて、やめる。先程の犯人が戻ってきたのではないらしい。
「おい? どうしたんだ? 気分でも悪いのか」
 眩暈をこらえて顔を上げた。晴れ上がった空。陽光に目を細める。
 逆光の中で、女、否、黒袴に白い小袖姿の少女が大きく目を見開いた。
「何だおまえ、怪我してんのか」
 言って、無遠慮に血を流す傷口に触れる。
 痛い。小さく呟けば、はっとしたように謝罪して手を引いた。
「転んだ、わけじゃなさそうだな」
 地面に転がった石と、足音が去っていった方向とを順に見やり、端整な顔を歪める。
 クソ餓鬼が。そう吐き捨てる少女も随分と若い。恐らく自分より少し上、十三か十四といったところ。
 若干朦朧としながら見上げていると、視線に気づいたのか少女がふいにしゃがみ込んだ。
 軽く首が傾げられる。結い上げた長い黒髪が風に流れた。
「血、結構出てんな。立てるか?」
 手を引かれ、多少ふらつきながらも立ち上がる。
 痛みはあるが、眩暈は大分治まっていた。もう平気だからと言いかけて、存外真剣な視線に口を噤む。
「着物、汚れてる。血もついてるし」
 まじまじと上から下まで眺められて、居心地の悪さに身を捩る。
 改めて見ると、少女は酷く美しかった。端整な顔立ち、艶のある黒髪。一風変わった格好だが、身なりも良い。薄汚れた自分の姿を思い起こすと、わずかに羞恥心が湧き上がった。
 逃げ出したい。そう思うのに、まだ少女は解放してはくれない。
「おまえ、名は」
「……鈴香」
「よし、鈴香。ちょっと来い」
 問い返す間もなく、握られた手を引かれる。
「ちょっ、何……」
「いーからついてこい。怪我の手当てもしなくちゃなんねえだろ」
 ぐいぐいと鈴香を引きずっていく少女は強引なことこの上ない。そのまま目の前にそびえる立派な門構えの屋敷に入っていく。
 冗談ではない。ぞっとして、ただでさえ引き気味だった血の気をさらに引かせる。
 これは明らかに武家の屋敷だ。自分のような身分違いの子供が入っていい場所ではなかった。目を剥いて制止する門番を尻目に、少女はぐんぐんと歩を進める。手入れの施された庭園を横切って、縁側から邸内に上がりこんだ。
「夏乃様! その娘は何ですか!」
「ああ、佐智か。ちょうどいい、湯浴みの用意はできているか?」
 居合わせた女中が驚きの声を上げるのに対して、少女は何でもないことのように問いかける。
「いえ、支度は済ませておりますが、一体どこからそのような娘を連れ込んだのです?」
 一瞬、女の顔が侮蔑に歪む。その表情で鈴香は続く言葉を悟る。
 今更だ。別に傷つくことでもない。
 醒めた目をした鈴香の前で、紅の刷かれた唇が音を紡ぎ出す。

「そのような異人の、」

 だんっと。響き渡った大きな音に、女の声が遮られた。
 柱に叩きつけられた拳。唖然とする二人の前で、少女はあくまでにこやかに小首を傾げてみせる。
「湯浴みの用意はできているんだな?」
 麗しく目を細める仕草とは相反した眼差しの冷たさに背筋が凍る。
「ならもう下がっていい。代わりに里江をよこしてくれ」
 言い放って、後は視線を合わせることなく歩き出す。
「……ッ、夏乃様!」
 殺しきれない怒りと狼狽、恐れの滲んだ声が投げつけられるも、少女が振り返ることはない。
「あ、の」
 引きずられる速度が速くて足元がもたつく。血が入った左目が開けないせいで、平衡感覚がうまく保てない。
「ん?」
「な、んで、」
 どうして助けてくれるのか。庇ってくれるのか。
 上手く言葉が探せず言い澱む鈴香に、少女が立ち止まる。
「何が『何で』なんだ?」
 向けられるのは美しい漆黒の瞳。先程までの苛烈さが嘘のように穏やかな。
 そんな目で見られると、困る。すべて見透かされてしまいそうだ。
「だって、この、目。髪も」
 言って、青い瞳をわずかに伏せる。肩口で切りそろえた髪の色も、鈴香のものは日に透けるほど薄い。
 異人の血を引く証たるこの色彩は、好奇や偏見の対象にこそなれ、初対面の人間にここまで良くしてもらう理由にはならなかった。そもそも、今日石を投げつけられたのだってこの目の色のせいなのだ。
 陰口を叩くだけの大人に比べて、子供は包み隠すということをしない。彼らにとっては自分たちと『違う』ものがあれば、それだけで排除の対象になる。
 少女が俯いた鈴香の頬に手をかける。仰向かせて、視線を合わせた。
「綺麗な色だ」
 短く、少女が言う。他の言葉など受けつけぬというように強い、声。眼差し。
「それはおまえを彩るものにこそなれ、傷つけるものにはならないよ、鈴香」
 嘘だ、と叫んでしまいたかった。嘘だ、嘘だ。鈴香はずっと傷つけられてきた。
 睨みつける青の先で、けれど少女は笑う。
「馬鹿どもが何と言おうが、その色は美しいよ。だが、それもおまえの内面を表すものではない」
 そのくらいわかっているだろう? と。思わず頷いてしまいたくなるような凛とした声で少女が諭す。
「何はともあれ、まずは治療だ。里江、後は頼む」
 いつの間にか側に控えていた老婦人が静かに諾と応えた。
「里江はあたしの乳母だから、心配しなくていい」
「お初にお目にかかります、鈴香様。里江でございます。さ、まずはどうぞこちらに」
 やわらかに背を押されて、あ、と思う。まだお礼も言っていない。
「夏乃、様!」
 慌てて声をかけると、板張りの廊下を行きかけていた少女がぴたりと止まった。
「橘」
「え?」
 不可解な単語に眉を顰めると、少女が肩越しに視線をよこした。
「橘って呼んでくれ。その名は嫌いだ」
 穏やかな、けれど何かを諦めて呑み込んだような微笑だった。
 違う、と咄嗟に思う。こんな笑みは彼女には似合わない、と。
 少女の何を知っているわけでもないのに、鈴香は思う。
「じゃ、後でな」
 ただ何となく、彼女が自分をここまで連れてきた理由がわかった気がした。




 一度深く呼吸をして、案内された部屋の障子に手をかける。失礼します、と一声かけて開くと、薄暗い室内に光が差し込んだ。
「橘、様」
 言い慣れぬ敬称を口にすると、少女は脇息にもたれたまま苦笑いしてみせた。
「様は止めてくれ。敬語もいらねえよ」
「でも」
「おまえは別にうちの使用人でも何でもねえんだから」
 そうは言っても、これだけ身分差があるのだからと鈴香は思う。御武家と庶民の違い。それこそほんの子供だって知っていることだ。
 型破りな言動を繰り返す姫君は、鈴香を手招いてゆるりと目を細める。
「赤、似合うな」
 どこか満足げに呟かれて、鈴香は改めて貸し与えられた着物に目を落とした。
 鮮やかな朱色に、繊細で優美な柄模様。下品な派手さはない。鈴香にさえ一目で値打ち物だとわかる代物だ。手触りはいいが多少重たい袖を持ち上げ、嘆息する。
「こんな高そうな着物……」
 とてもではないが着られないと拒絶したのだが、汚れた着物は洗っている最中だからと半ば強制的に着付けられたのだ。治療を受けた額の傷には布が当てられている。
「いいじゃねえか。似合う。あたしはどうせ着ねえしな」
 そう言う少女は恐らく道着であったのだろう袴を脱いではいたものの、鈴香とは対照的に質素な単。それも多分男物だ。
「あなたが着ればいいのに」
 絹糸のような漆黒の髪は、今は結わずに下ろされている。男物をまとっていても彼女の美しさは損なわれてはいなかったが、着飾ればそれは見事な美姫になるだろう。
「あたしはいいんだよ。女モンは必要なとき以外着ないことにしてる」
「なぜ?」
「女になるの、嫌なんだ」
 なるのが嫌といっても、女だろうに。曖昧な言い回しに、鈴香が首を傾げる。
「なぜ?」
 再び同じ問いを繰り返すと、少女は困ったように口元を歪めた。
「あたしは」
 言いさして、わずかに逡巡する様をみせる。光を帯びた瞳が頼りなげに揺れた。
 そして、熟れたように赤い唇からそっと言葉が漏れる。
「あたしは、醜い、から」
 何を。言っているのだろう。一瞬言葉の意味が咀嚼できずに顔を顰める。
 みにくい。醜い?
 そんなわけがなかった。少なくとも彼女は鈴香が今まで見た中で一番綺麗な人間だ。
 反駁しようと口を開いた鈴香を遮るように、少女が動いた。
 着崩した着物の右袖を引く。襟元が大きく肌蹴られる。
「…………ッ」
 思わず声を上げそうになって、鈴香は両手を口元に押し当てた。
 咽喉にせり上がってくる異物感に必死で耐える。
 露になった少女の、右肩から胸元にかけて。
 広がるのは異様に隆起した赤黒い瘢痕。火傷、の痕なのだろうか。まるで別の生き物が内側からのたくったような光景。
 おぞましい。理性や感情よりも先に、本能で思う。
 絶句した鈴香に、少女が苦く笑う。怒りも落胆もなく、ただ緩やかに。
「な? 気持ち悪い、だろ?」
 穏やかな声音に、鈴香は我に返ってわずかばかり色を失う。
「あ……」
 目を、見開く。
 何て、反応を。してしまったんだろう。
「ごめん、なさい」
 反射的に謝る。そして、謝ったこと自体がまた少女を傷つけるのではないかと思い至って、さらに動揺した。
「別に、気にしてねえから。実際自分でも気持ち悪ィと思うし」
 どこまでも朗らかに少女は言うけれど、そんなはずはないと鈴香は知っている。
 異形の者として見られる辛さは知っていた。
 もう慣れた、何ともないと思っていても、本当は辛い。諦めても諦めきれない。
 知っていたはずなのにどうして、あんな反応をしてしまったのだろう。
「ほら、こんなだから、あたしは男の方が楽なんだ。別に身体に傷あってもおかしくねえし、剣の修行も存分にできるし」
 襟を正しながら、少女は笑う。何か、思考の端に引っかかる違和感があった。
「だから?」
 違和感の原因を探るように、口を開く。
「ん?」
「だから、夏乃って名前も嫌いなの?」
 そう問えば、見る間に少女の顔から一切の表情が抜け落ちる。
 能面のようだった。神に捧げるために、精巧につくられた。
 美しい、面。
「……そうかも、な」
 やがて、少し震える唇で少女は告げた。微かに口の端を吊り上げる。
「あたしは、女に生まれてきちゃいけなかったから」
 言って、どこまでもどこまでも透明に微笑むから、違うだろうと鈴香は叫びたくなるのだ。
「外見は、内面を表しているのではないのでしょう」
 押し殺した声音で言う。何か誤魔化されたことだけはわかっていた。
 この青い目で差別されることがあっても、それは鈴香のせいではないと。
「あなたがそう、言ったんでしょう」
「だけど」
 囁くように、けれど強く言い切って、少女は静かに目を伏せる。
 長い睫毛が目元に陰を落とした。黒髪が頬を滑る。
「人は醜いものを嫌うだろう。おまえの目は美しいから、きっと好いてくれる人もいる。でも、あたしのこれはどこまでいっても醜いものでしかない」
 違う。違う。鈴香は首を横に振る。
「……醜くなんて、ない」
「鈴香」
 俯いて頑なに言い張れば、馬鹿なことを言うなと諌めるように名を呼ばれる。
「醜くなんてない!」
 かっと頭に血が昇る。
 覚えるのは怒りだった。口先では何と言おうと、あの痕を思えば嫌悪感を隠せない自分への怒り。
 だって、こんなに綺麗な人を見たことがなかったのだ。
 射抜くような眼差し、力のある声も。凛と伸びた背中。粗野な言動をしても隠し切れない立ち居振る舞いの美しさ。
 母以外でこんなにやさしくしてくれた人は初めてだった。それなのに、どうしてこんなに綺麗な人が苦しまなくてはいけないのか。
「泣くなよ」
 声はどこか不器用な響きを伴って優しかった。鈴香はただ嗚咽を押し殺す。
「おまえの目は、きっと、この国から出れば珍しいものでもないんだろう」
 しばらくの沈黙の後、ぽつりと少女が呟いた。果たしてそれは憧憬だったのだろうか。
「けれどあたしのこれはどこに行っても醜い」
「たとえこの国を出たとしても。きっとまた異人の子だと蔑まれる」
 涙に濡れた目を上げて、挑むように見据える。応えが返るとは思っていなかったのか、少女が微かに息を呑んだ。
「どこにも逃げ場なんてない」
 それは彼女を慰める言葉ではなかった。あなたが醜いのならば自分だってそうだと、桃源郷などどこにもないのだと、八つ当たりをするだけの言葉。
「……そうか」
 それでも、少女は。
「それなら仕方ないな」
 どこか救われたように、微笑んで、そっと目を伏せた。

INDEX