さよなら、スピカ。


T 宮下琴音


 恋をするのに理屈なんていらない。
 好きとか嫌いとか、そんなの頭で考えるものじゃないし。理由なんて後付けで、結局は直感だ。本能。
「それにしたってきっかけってもんがあるでしょ」
 いつも通り冷ややかな声で切り捨てるのはサキで、あたしは飲み終えたジュースの紙パックを握り締めた。
「だから、ビビっとくるのがきっかけなんだってば!」
 内容が内容だけに叫ぶこともできず、声を抑えて力説する。九月に入って暑さも大分マシになったからか、屋上で昼休みを過ごす人も増えた。みんな自分たちのお喋りに夢中で、周囲の話なんて気にしていないと思うけれど、万が一聞かれたら気恥ずかしい。
「ビビっと、ねえ。朝子はわかる?」
 急に話を振られて、一人のんびりとお弁当をつついていた朝子がはたはたと目を瞬かせた。
「私は恋とかそういうの、よくわからないから……」
 おっとりと唇を動かして目を伏せる。うん、今日も朝子は可愛い。見た目だけで言えばサキの方が抜群に美人だけれど、話し方とか仕草とか、ザ・女の子って感じ。中身も充分女の子らしいけどさ。
「いいなあ、あたしも朝子くらい可愛かったらなあ」
 冗談半分本気半分で呟いて、ぎゅうと小さな頭を抱え込む。
「わっ、え?」
 胸の中で朝子が控えめな抵抗を繰り返す。私なんか、とか言ってるのが耳に入るけど黙殺。君が可愛くなかったら大半の女の子は可愛くない。
「こら。危ないからやめなさい、朝子の弁当がひっくり返る」
「あ。」
 忘れてた。サキに頭を一叩きされて、腕を解く。少々息苦しかったらしく朝子は真っ赤な顔をしていたけれど、どうやら弁当は死守したようだ。
「こ、琴ちゃんは充分可愛いよ」
 乱れた髪を手のひらで整えて(後で結い直してあげよう)、ようやく人心地がついたのか、朝子がそんなことを言う。可愛い奴め。また抱きしめてやろうかと思ったけれど、さすがに自重した。
「ま、好きな男の好み聞いて素直に髪伸ばし始めるあたりはカワイイかもね」
 単純で。ぼそりとサキがいらんことをつけ加える。
「うるさいなあ。ほんとは手入れが面倒だから伸ばすの嫌なんだけど」
「髪が長いのが女の子らしいと思うあたり、野々村もまだまだガキだよねえ」
 辛辣な言葉とは裏腹に、表情も変えずにサキが言い放つ。サキとは高校に入ってから仲良くなったけれど、綺麗な顔をして意外と毒舌家だ。だけど、独特の雰囲気というか妙な迫力があって、キツイことを言われても不思議と嫌味には感じない。
「朝子、おいで。髪、編み直してあげる」
 そう言ってサキが朝子を手招く。腰まである長い髪を丁寧に三つ編みにしていくサキの表情はやわらかく緩められていて、それを見ていると決して悪いヤツではないのだろうと思えるのだ。




 音楽の授業は少し憂鬱だ。
 歌うのは好き、だけど。音楽の先生と合唱部の顧問とは当然同じ先生なわけで、部を辞めたあたしはちょっとばかり肩身が狭い。
 仕方がないから一生懸命楽譜を見ているふりでやり過ごす。ラ、ラ、ド、シ、レ。音符が瞼の裏を空回る。
 ふいに、困惑した先生の顔を思い出した。
 転部のとき、あたしは「野球部のマネージャーになりたいんです」とだけ伝えて、何度尋ねられても本当の理由は話さなかった。
 だって、好きな人が野球部だから、なんてさすがに先生には言えないし。
 家族にだってクラスの友達にだって本当のことは言っていないのだ。朝子とサキにだけは特別に教えたけれど、普通に考えて馬鹿みたいだってことは自分でもわかってる。
 だけど、好きになったのなら最大限の努力をしたかった。少しでも多く側にいたい、言葉を交わしたい。それって自然な欲求だと思う。
 恋をするのに理屈なんていらない。ロマンチックな出会いも、劇的なきっかけもなかった。不器用で、真面目で、わかりづらいけれどやさしくて。そんな彼をいつの間にか目で追うようになっていた。好きなところならいくらでも挙げられるけど、それは野々村くんの一部であってすべてではない。
 好きになった分だけ、好きになってもらえたらいいのにな。そうしたらきっと簡単なのに。
 ただのクラスメイトでしかなかった頃に比べれば、随分と距離は縮まったと思う。でも、それじゃあ足りない。好きでいてもいいって保証してほしい。あたしを必要としてほしい。
 全部あげるから、全部くれたらいいのに。




 告白の日を冬休み直前に選んだのは、進展がないまま今年も終わってしまうという焦りと、もし振られたとしてもしばらく顔を合わせずに済むという打算からだった。
 らしくもなく弱気になっている、とは思うけれど、恋愛に関しては余裕なんて全然ない。初恋は実らない、なんてジンクスが頭を過ぎる。
 屋上からは色づき始めた街の灯りが見渡せた。制服の隙間から潜り込む風にマフラーをかき合わせる。グラウンドで模擬試合をしているサッカー部の声が、冷えた空気を渡って耳に届く。サッカーは好きだけれど、さすがに眺める気分にはなれなくて目を逸らした。
 大丈夫だ、と繰り返し自分に言い聞かせる。朝子もサキも結果がわかるまで教室で待ってるって応援してくれた。どんな結果になっても、あたしは一人じゃない。
 目を閉じる。重たい鉄扉の蝶番が鈍い音を立てた。
「宮下?」
 二歩、三歩。進んで野々村くんがぐるりと視線を彷徨わせる。
「ごめん、こっち」
 できるだけ明るく振る舞おうとしたけれど、緊張で声が震えた。幾分強張った顔で野々村くんがこちらに歩いてくる。放課後に屋上なんてベタな呼び出しだから、用件に気づいているのかもしれない。
 あたしからも歩み寄ろうと思ったけれど、足に力が入らなかった。結局冷たい鉄柵にもたれたまま、その場に立ち尽くす。会話するにはやや遠い微妙な距離を置いて、野々村くんが立ち止まった。
「えっと、急にごめんね? 大丈夫だった?」
「いや……、それは平気だけど。話って何?」
 駄目だ。肺の奥がぎゅうぎゅうと痛む。こんな様子じゃ絶対気づかれた。パニックで涙が滲みそうになるけれど、必死に笑みを浮かべる。できるだけ女の子らしく、女の子らしく。
「すき、です」
 あ、やっぱり泣きそう。
「いきなりでごめん。一年の頃からずっといいなと思ってて……。良かったらつき合ってください」
 前もって考えていた台詞なんて全部吹っ飛んだ。頭の中が真っ白だ。
 怖くて野々村くんの顔を見ていられない。うつむく。ぎゅっと目を閉じる。
「……ごめん」
 ほんの数秒の沈黙が、信じられないほど長く感じた。
「気持ちは嬉しいけど、宮下のことはそういう風に見れない」
 ああ。駄目だったんだ。気が抜けて一瞬へたりこみそうになるのを堪える。
「そっか……」
 不思議な気分だった。気持ちを吐き出してすっきりしたはずなのに、全身に湿った綿が詰まっているみたい。
 顔を上げると、真っ直ぐ視線がぶつかった。それが何だか、あまりに野々村くんらしくて少し笑ってしまう。
「他に好きな人がいる、とか?」
 幾分呼吸が楽になって、今度はちゃんと声を出すことができた。
 小さく肯定の言葉が返る。彼女はいなかったはずだから、片思いということなんだろう。
「どんな子か聞いてもいい? あたしも知ってる人?」
 野々村くんは戸惑っているようだった。当たり前か。でも、あたしは「やっぱりいいよ、ごめん」とは言わなかった。未練がましいかもしれないけど、好きな人の選んだ子がどんな人なのか知っておきたかったから。
 きっぱり拒否されたらもちろん引き下がるつもりだったけれど、彼はそうしないだろう。今だってあたしが理性なんて放り出して泣き出したら、きっと慰めてしまうに違いない。それがどんなに意味のない、残酷なことだったとしても、彼はそうせずにはいられないだろう。
 長いこと逡巡してから、野々村くんは口を開いた。
「俺が好きなのは──」
 そして、あたしはその名前を聞いた。




 これはどういうこと。
 階段を駆け下りる。廊下を走る。スカートの裾がめくれる。気にしない。
 頭がぐらぐらしている。マグマがぐつぐつ煮え立っているみたい。
 意味がわからない。
 教室のドアを開け放つ。自分の席に座っていた朝子が、跳ねるように顔を上げた。
「琴ちゃん」
 ぽつり、と怯えたような囁き。一緒に待っているはずのサキの姿はない。
 朝子は困ったような顔をしながらゆっくりと立ち上がった。決意のような諦めのような悲しみのような不思議な色を浮かべている。
 でも、いつになく真剣で強い目の色をしていたから、あたしはそれで悟ってしまった。
「知ってたんだ」
「琴ちゃ、」
「知ってたんでしょ、朝子は! 全部知ってたんだ! 知ってて笑ってたんだ! サキも! 二人で応援するふりして……!」
「琴ちゃん、待って、それは違う」
「何が違うの! じゃあどうして何も言わないうちからそんな目であたしを見るの!」
 許せない。意味がわからない。
 野々村くんがどんな子を好きでも、あたしは邪魔するつもりなんてなかったけれど。
「どうしてよりによって朝子なの……!」
 信じてたのに。たとえ振られたって二人はあたしの味方だって思ってたのに!
 野々村くんは言った。朝子が好きだって。そのことはサキも知ってるって。
 髪が長くて、女の子らしい女の子。それは野々村くんの『タイプ』なんかじゃない、好きな子そのものだったんだ。
「バカみたい。あたしはずっと朝子になりたがってたんだ」
 もう何もわからない。

 あたしは一体何を信じたらいいっていうの。




U 萩原朝子


「朝子に一番に教えるんだからね」
 琴ちゃんのその言葉だけで生きていける気がしていた。
 青空、風の匂い、つないだ手のひらとタンポポ、ツユクサ、シロツメクサ。子供のままだったら、ずっと一緒にいられたのかな。
 親友だよって言ってくれたのは琴ちゃんだけで、私はそれに縋ってここまで来てしまった。溺れるのは怖かった。だけど幸せだった。天真爛漫で、明るくて、大人相手にも物怖じしなくて。自分の思っていることをはっきり言える琴ちゃんに憧れていたんだよ。
 ねえ、親友ならずっと一緒にいられると思っていた私が間違っていたの。




「朝子に一番に教えるんだからね」
 帰り道、いつものように琴ちゃんが言った。
 一番、という言葉の響き。サキちゃんには怒られるかもしれないけれど、わざわざ二人きりのときに教えてくれるのがとても嬉しかった。
 でもそのときは珍しく琴ちゃんが口ごもっていて、そんなに重大なことなのかなと私も少し不安になった。
「あたし、野々村くんが好きみたい」
 幾度か口を開いては閉じを繰り返した後、琴ちゃんはとてもとても大切なことを口にするようにそっと囁いた。私はその意味が理解できなくて、いつの間にやら控えめにグロスが塗られるようになった琴ちゃんの唇を見つめていた。
「野々村くん、て。うちのクラスの野々村くん?」
「他の野々村なんて知らないよぉ」
 照れ隠しのように、琴ちゃんが明るく声を張り上げる。
 野々村誠治くん。クラスメイトで出席番号が同じだし、よく本を借りにくるから(私は図書委員だ)知らない仲じゃない。というより、琴ちゃんが彼のことを気にかけているのも知っていた。好きなのかな、と思ったこともある。それでも、実際に琴ちゃんから告げられると、その言葉は違和感しか伴わなかった。
「ね。応援してくれるよね?」
 頬を染めて、琴ちゃんが幸せそうに笑う。
 私は頷いた。だって、私は琴ちゃんの親友だもの。理由のわからない違和感なんて捻り潰せる。
 ──はずだった。




 琴ちゃんが変わっていく。
 短かった髪の毛を伸ばすようになった(頬にかかるショートカットが似合っていたのに)。
 野球中継を観るようになった(どちらかといえばサッカーやバスケの方が好きだったのに)。
 ふわふわのロングスカートをよく履くようになった(そんなの履いたの見たことなかった)。
 私の知っている琴ちゃんが消えていく。
 ちょっとくらいガサツでも明るい琴ちゃんが好きだった。なのに、女の子らしくしなくちゃって琴ちゃんは言う。控えめで、おしとやかで……そんなことしなくても琴ちゃんは充分女の子らしいのに。
 何が琴ちゃんをそこまでさせるんだろう。私には理解できない。野々村くんに好きになってもらうためって言うけど、そんなことして好きになってもらってもそれは本当の『好き』なのかな。
 そのままの琴ちゃんの魅力がわからない野々村くんが悪いんだって、たまに責任転嫁しそうになる。だけど、琴ちゃんが一生懸命頑張っているから、私は何も言えない。私は琴ちゃんの親友だもの、応援してあげなくちゃ。

 琴ちゃんが合唱部を辞めて、野球部のマネージャーになった(あんなに歌が好きだったのに)。




「そういえばさ、朝子はいないの? 好きな人」
 階段を下りて昇降口に向かう途中、前触れもなくサキちゃんが振り返った。
「え」
 思わず固まってしまう。背の高いサキちゃんを見下ろすのは新鮮だ、なんて現実逃避をしてみるけれど、どんどん顔に血が上るのがわかる。
「言いたくないなら、別にいいけど」
 答えに詰まった私を見て、サキちゃんは笑って、なかったことにしようとしてくれる。そのまま行ってしまいそうになるから、慌てて残りの段を駆け下りた。
「そういうのじゃなくって。ほら、この間も言ったけど、私まだ好きとかよくわからなくて」
 恋をするっていうのは友達の好き、とどう違うんだろう。
「私、子どもっぽいのかな」
 少し心配になる。周りの女の子は当たり前みたいに恋をしていて、それがわからないなんて! って顔をしている。それともいつかははっきりわかるものなのかな。
 サキちゃんにも好きな人がいるらしい。サキちゃんは大人びていて考え方もしっかりしているから、きっと相手も素敵な人なんだろう。
「朝子は多分、真面目なんだね。琴音みたいなのは思い込んだら一直線って感じだけど、朝子はずっと境界線を探ってるみたい」
 境界線。確かにそんな感じかも。やっぱりサキちゃんは鋭い。
 知り合いと友達、友達と親友、親友と好きな人。一体どこで分けられるんだろう。
「まあ、好きの形なんて人それぞれだからね。別に慌てることもないと思うけど」
 サキちゃんが目を細めて笑う。頭を撫でられて顔を伏せた。
 本当は、私だって気づいている。
 私が琴ちゃんに向ける執着は、きっと普通じゃあ、ない。




 琴ちゃんが今日、野々村くんに告白する。
 今頃部活を終えて屋上に向かっている頃かな。結果がわかるまで待ってるって約束したから、私とサキちゃんは誰もいなくなった教室にいる。
「良かったの?」
「……何が?」
 サキちゃんの言いたいことは何となくわかっていたけれど、知らないふりをすることしかできなかった。
 私は琴ちゃんの応援をするって決めたんだもの。
「朝子は、琴音が好きなんだ」
 断罪するみたいに静粛な声でサキちゃんが告げる。疑問形ではなく、ただ事実を述べるように。
「恋愛感情かどうかは知らないけど。朝子は琴音が離れていくのが怖いんでしょう。変わっていくのが嫌なんでしょう。ずっとそんな顔をしてた」
「……わかんないよ」
 何もわからない。
「好きって何? 私は今まで通りで充分だったのに、どうして琴ちゃんは変わっていっちゃうの」
 内気で人見知りだった私の手を引いてくれたのは琴ちゃんだ。私は馬鹿みたいにそれに甘えてここまでくっついてきてしまって、だから今更一人になってもどうしたらいいのかわからない。
「朝子は琴音が変わることばかり責めるけどさ」
 サキちゃんの声は平坦だ。哀れみも憤りもない。だからこそ初めてサキちゃんが怖い、と思った。
「朝子は一度でも自分の気持ちをちゃんと言ったことがあった? 好かれたくて自分を切り捨てているのは、朝子も同じじゃないの?」
「私、は」
 だって、怖いのだ。私は与えられるしかできないから。琴ちゃんの手を掴んで引き止めることなんて、私にはできなかったから。
「琴音は振られるよ」
「……え?」
 一瞬、すべて忘れて呆ける。サキちゃんは何でもないことのようにうつむいて爪の先をいじっている。
「野々村が好きなのは朝子だもの」
「冗、談」
「嘘じゃないよ、あたしは野々村本人に聞いたんだから。まあ琴音のこともあったし、協力は断ったけどね」
 え、え? 野々村くんが私を好き? 琴ちゃんが好きなのは野々村くんで、私が好きなのは琴ちゃん、で。
 ぐちゃぐちゃになった頭の中を整理していくうち、どんどん血の気が引いていく。
「じゃあ、琴ちゃんの邪魔をしていたのは、私?」
「朝子のせいじゃない。琴音のせいでも野々村のせいでもないよ。あの子が言ってたでしょう。恋をするのに理屈なんかいらないって」
「でも、でも、それならどうしてもっと早く教えてくれなかったの!」
 どうして今、このタイミングで。琴ちゃんが告白しようとしているこのタイミングでそんなこと。
「教えたところで朝子に何かできた? 野々村に『琴音を好きになって』って頼む? 断言してもいいけど、野々村は琴音を好きにはならないよ。──ねえ、朝子はいつまで逃げてるの。本当に琴音じゃなきゃ駄目? そう思い込んでるだけじゃないの? いい加減、ちゃんと向き合いなさい」
 もういい。もう聞きたくない。
「全部呑み込んで、言いたいことも言えないで、何が親友だっていうの」




「どうしてよりによって朝子なの……!」
 琴ちゃんが泣き叫ぶ。力任せに机を引き倒す。憎しみを灯した目で私を見ている。
「バカみたい」
 ふらふらとよろめいて黒板にもたれた琴ちゃんは、手のひらで顔を覆いながらその場にしゃがみ込んだ。
「あたしはずっと朝子になりたがってたんだ」
 くぐもった声。琴ちゃんが泣いている。私のせいで泣いている。
「……私は、ずっと琴ちゃんになりたかったよ」
 胸を締めつける感情は悦びに似ていた。悲しくも辛くもある、けれど。それでも琴ちゃんは今、私だけを見ている。
 やっと、『私』を見てくれた。
「野々村くんのことはさっきサキちゃんに聞いたの。これは本当。信じて」
 子どもみたいに琴ちゃんが首を振る。信じられない、と泣く。
「本当だよ。嘘じゃない」
 どう言葉を尽くせば信じてもらえるのだろう。
「ね。琴ちゃん。私は一度だって琴ちゃんに嘘を吐いたことはないよ。野々村くんが私のことをどう思っていたって関係ない。私が好きなのは琴ちゃんだもの」
 愕然としたように、琴ちゃんが泣き濡れた顔を上げた。目元が腫れていて痛々しい。
「朝子、何言ってるの?」
「もういいの。私、何だか疲れちゃった。野々村くんなんて嫌いだよ。私の琴ちゃんを奪ってくんだから。私には琴ちゃんだけいればいいのに」
「だから、野々村くんに近づいたの? あたしの邪魔をするために?」
「……どうしたって、信じてくれないんだ。ううん、私のことなんてどうでもいいんだね。琴ちゃんには野々村くんしかいらないんだ」
 私の告白なんて、琴ちゃんは耳に入っていやしない。
「私は琴ちゃんが好きだよ。それだけ覚えていてくれればいいよ。だから、琴ちゃん」
 さあ、息を吸い込んで。
「ばいばい」




V 天城早紀


 あたしは宮下琴音が嫌いだ。
「そんなのおかしいって! 試す前から諦めるなんて間違ってる。好きならつき合いたいのが普通でしょ?」
 無神経で周りが見えていない。相手の事情を推し量ることもできずに、土足で心の中に踏み入ってくる。
「でもほら琴ちゃん、相手に恋人とか好きな人がいるのかもしれないし……」
「そんなの! サキは美人なんだから大丈夫だよ、とにかく動いてみなきゃ始まんないじゃん!」
 お子様思考。自分だけが可愛い人間の典型。しかも無自覚な分、性質が悪い。
「まあ、あたしのことはいいじゃん。それより琴音の方はどうなの? まだ告白してないんでしょ?」
 それでも笑って受け流すのは、結局あたしも汚い人間だってこと。波風立てるのが面倒臭いなんていうのは建前で、メリットがあれば嫌いな人間ともそれなりにおつき合いをする。その程度にはあたしだって大人だ。
「あー、うん。そうなんだよね。そろそろ告白しなきゃなあ」
「来年は受験だもんね」
 朝子が控えめに微笑みを浮かべる。宮下琴音の幼馴染、親友。
 あたしが宮下琴音とつき合う唯一のメリット。




 女子トイレを出て、七組の前の廊下を右に折れた。向かおうとしていた図書室から丁度出てきた人影を見て、思わず顔を顰める。
 野々村誠治。宮下琴音の想い人。
「天城。ちょっといい?」
 話し込む仲でもないから、そのまま素通りしようとしたのだけれど。呼び止められては無視するわけにもいかずに立ち止まる。
「……何?」
「少し、話があって。つき合ってほしいんだけど」
 言うなり、そそくさと階段に向かって歩き出す。あまりにも余裕のない振る舞いに話の内容を察してしまって、思わず溜息を吐いた。
 ちらりと図書室に目をやる。本好きの朝子は図書委員の当番がない日でも大抵図書室にいる。そうして琴音の部活が終わるのを待って一緒に帰るのだ。この時間帯は琴音なしで朝子といられる貴重な時間だった。
 余程あたしが険しい顔をしていたのか、階段の前で待っていた野々村が眉を顰めて「ごめん」と呟いた。
「別にいいけど。人に聞かれたくない話なら屋上行く? 今の時間ならそんなに人いないでしょ」
「助かる」
 それきり会話もなく黙々と階段を上る。居心地が悪いったらなかった。そっちから誘ったんだから、少しは気を遣えっての。
「で? 何の用?」
 昼休みにはそれなりに賑わう屋上も、今は人気がない。高校生の放課後は部活動や遊びで忙しいのだ。念のため人が入ってきたらすぐにわかるように、扉が視界に入る位置で振り返る。
「さっさと吐いちゃったら? 何もあたしに告白しようってわけじゃないでしょ?」
 腕を組んで促すと、野々村は一瞬目を見開き、それから渋面をつくった。
「違う」
「知ってる。あんたが告白するなら朝子だもんね」
 今度こそ絶句した野々村を見て、幾分溜飲を下げる。我ながら意地が悪い。
「それ、どうして」
「見てればわかる。足繁く図書室に通ってみたりさ、結構露骨じゃない。朝子相手だと親切度五割増しだし」
「……そんなにわかりやすいか、俺」
 あれ。何やら落ち込ませてしまったらしい。
「まあ、気づいてるやつはほとんどいないんじゃない? あたしも朝子のこと好きだから、何となくわかるんだよね。元々そういうのには敏感な方だけど」
「好き、って」
「ライクじゃなくてラブね。だから、あんたとはライバルか。いや、でも同士って言った方がいいのかな、やっぱり」
 呆気に取られている野々村を見つめる。手の内を晒すのは、相手の弱みを握っているからだ。朝子のことが好きなのだとばらされたところであたしには痛手ではないけれど、こいつにとってはそうではないだろう。
「いいよ、協力はしないけど、共同戦線を張らない? あたしの知ってることは全部教えてあげる」
 そしてある種の同情──仲間意識があったことも確かだった。




 笑うことを躊躇うみたいにはにかむ様子がいいと思った。
 控えめなのは自信がないからじゃなくて、優しいからだと知っていた。朝子は他人の悪意を受け入れて噛み砕いて、自分のものにしてしまう。それが当たり前のことのように。
 彼女は自分が不幸だなんて考えもしないのだろう。琴音がいれば幸せ。雛鳥が初めて見たものを親だと思い込むようなインプリンティング。そんな思い込み自体が不幸なのに。
 自分が不幸なのに不幸だと気づいていない様子がいいと思った。そういう人があたしだけ見てくれたら。あたしなら幸せにしてあげられるのに。
 でも。




「あんたさ、何であのとき琴音じゃなくて、あたしに朝子のこと相談しようと思ったの」
 今更ながら野々村に尋ねたのは興味本位からだった。悔しいけれど、幼稚園からのつき合いの琴音の方が朝子のことにはずっと詳しいのだ。性格から言っても社交的な琴音の方が取っつきやすいだろう。
「何でって言われてもな……。天城は余計なことはしないと思ったから、かな。口も堅そうだし、それに言っちゃ悪いけど、あんまり他人に興味ないだろう」
 俺のこともどうでもいいと思って、となかなかに的を射たことを言う。
「あれこれ言い触らしたりとか引っ掻き回したりとか、どうでもいいヤツにそういう無駄な労力割かないだろ? まあ、だからこそ妙に萩原と仲がいいのが目についたんだけど」
「あんたのことはどうでもいいとしても、朝子のためにあんたの邪魔をするとは思わなかったんだ?」
「実際しなかったじゃないか」
 気負いもなく、野々村は言う。こうして時折話をするようになってから知ったけれど、朴訥そうな見た目に反して存外鈍くはないらしい。
「別にね、あたしはつき合うとか本当はどうでもいいんだ。朝子が幸せになれるなら、相手はあたしじゃなくてもいい」
 ただでさえ同性同士というのはネックなのだ。たとえ想いが通じたとしても、現実問題負担は大きい。それを思えば、琴音ほど恋の成就に必死にはなれなかった。
「正直、もし朝子があたし以外の誰かを選ぶんなら、あんたがいいと思ってる」
「何、急に」
「そろそろ潮時かなと思って」
「だから、何が」
「琴音があんたに告白しそうだってこと」
「…………」
 沈黙、か。
 まあ、当たり前なのかな。琴音が告白してしまえば、野々村は断らざるを得ないし、その野々村を朝子が受け入れる可能性は下がる。
「あんたには気の毒だとは思うけど。でもどちらにせよ今のままじゃ朝子は誰も選べない。いつかは琴音の方から離れていくだろうけど、この調子じゃそれもいつになることか」
「だからって俺らにはどうしようもないだろ。それは萩原自身が決めることだ」
 困惑したような切り返しに、けれど首を振る。
「何とか、なるかもしれない。あんたが手伝ってくれれば。ただ、リスクは高いし、成功しようと失敗しようとあたしたちにはメリットはないのかも」
 静かな目に、視線を合わせる。
「だけど、朝子は変われる。賭けに出てみたいの。協力して」




 扉は開け放たれていた。電灯はついていない。窓から白んだ宵の光がぼんやりと差し込んでいる。
「朝子?」
 教卓の陰でうずくまっていた朝子がゆっくりと顔を上げた。
「……サキちゃん」
 入り口近くの机と椅子が引き倒されたように転がっていた。教科書やらノートやらが散らばっていて、それを見つめていた朝子が間を置いて、片付けなきゃ、と呟く。
「琴音は?」
 目を走らせるが、琴音の机に鞄はない。帰ったのだろうか。
「朝子?」
「……もう、どうでもよくなっちゃった」
 朝子が唇を歪める。
「琴ちゃんは、きっと謝ってくれる。今は頭に血が上ってるだけで、落ち着いたらきっと勘違いしてごめんって言ってくれる。そういうひとだもの。でも、もう駄目なんだってわかっちゃった」
 涙を流していることなど頓着していない様子で、朝子は仰向いて瞑目した。濡れた唇が震えていた。
「私が琴ちゃんを好きなのと同じくらい、琴ちゃんが私を好きになってくれることは、ないんだ」
 辛いな、と思った。朝子を琴音から引き離すために仕組んだのはあたしなのに。それでも朝子が泣くのは辛い。
「あたしでも、野々村でも。琴音よりはずっと朝子を大事にしてやれるのに。それでも朝子は琴音がいいの?」
 決着をつけなければいけない。かろうじて噛み合っていた歯車を引き抜いて、全部ばらばらにしてしまったのはあたしだから、自分だけ真実を告げないなんてことは許されないだろう。
「あたしにしときなよ」
 笑うと、朝子はほんの少し目を見張って、それからくしゃりと笑みを浮かべた。
「駄目だよ。私は誰かに好きになってほしかったわけじゃないから」
「……そう」
 結局、あたしたちは賭けに負けたってことか。
 朝子の性格を考えれば最初から分の悪い勝負だった。それでも、これで朝子も琴音以外の誰かに目を向ける余裕もできるだろう。今すぐは無理でも、きっと。
「朝子は、あたしを嫌いになる?」
 今更だけれど、訊いてみたくなった。憎まれても仕方のないことをしたのは自覚している。
 問いかけに、朝子は力なく首を横に振った。
「ごめんね」

 そして潤んだ瞳で微笑む。それがただひとつの真実だった。

INDEX