結婚前夜


W 野々村誠治


 俺たちは、二十八歳になっていた。
 高校を卒業して、もう九年。俺は大学を出た後、医療器具メーカーに就職した。天城──天城早紀とは、未だに奇妙な交友が続いている。お互いの家が電車で一駅ということもあり、何だかんだと月に一度は顔を合わせていた。
 宮下琴音については、俺はよく知らない。短大を出た後、アパレル業に就いたということは天城から聞いている。今は彼女にも結婚を考えている恋人がいるということだ。
 その知らせにどこか安堵を覚えたのは、かつて彼女の気持ちを踏みにじったことへの罪悪感からではない。否、もちろんそれも全くないわけではないのだろうが、とどのつまり宮下の熱が一過性のものであったことに対する安堵なのだった。
 不毛な恋に見切りをつけて、新しい恋を、幸せを追い求める。それは人間としてきっと正しい心の動きだ。そういった意味では俺と天城は間違いなく異常だった。
 萩原朝子。俺たちの、幼く泥臭い青春時代の象徴。
 やわらかく、いとけない少女に恋をしていた。いや、今でもしている、のかもしれない。それが執着なのか、懐旧なのか、惰性なのか、判断は難しい。
 恋をして、幸せを願い、傷つけた。あまりにも鮮烈で痛みを伴う記憶はそれでもどこまでも美しく、現在に至るまで忘却を許さなかった。
 故に、だからこそ。俺たちは厳粛な気持ちで受け取らなければならなかったのだった。萩原朝子の、結婚式の招待状を。




「あたしは前もって知らされてはいたけどさ、やっぱりこうやって改めて送られてくると、ちょっとクルものがあるね」
 天城がソファーの肘掛けに身体を預けながらそのハガキを弄ぶ。宛先は俺の実家になっていて、それがこちらに転送されてきたのは昨日のことだった。宮下同様、萩原との交流もここ数年ほとんどなかったのだから、俺の現住所を知らないのも致し方のないことだ。むしろ結婚式に呼ばれた事実の方が驚きだった。
「ま、あの子も大概律儀だからね」
 したり顔で頷く天城自身への招待状はもちろん彼女の自宅に送られてきたのだろう。彼女と萩原は今も親友と呼んでいいつき合いをしている。
「出席、するのか?」
 好きな相手の結婚式なんて、とつい口にしてしまった瞬間、愚問だったと悟る。予想通り、天城は険しい眼差しでこちらを睨みつけた。
「当たり前でしょ。何、あんた出席しない気なの?」
 首を振って否定する。招待された以上、出席しないという選択肢はなかった。
「だろうね」
 一転して天城が機嫌良さげに目を細める。
「まあ、新郎があんたであれば、あたしはもっと安心できたんだけどね」
「それは、仕方ないだろ。あれを萩原は宮下への裏切りだと感じてしまったんだから。どうあったって萩原が俺を見ることはないさ」
「そうだね。それはある意味あたしにも言えることだけど」
 身を起こして胸元にかかる黒髪をかき上げ、天城がふと吐息を漏らした。
「悪かったと思ってる。あんな形でなかったら、もしかしたら……」
 瞑目して告げられた言葉は重く沈んでいる。
「いや。協力するって言ったのは俺だし、天城が謝ることじゃない」
 天城は閉じていた瞼をゆるゆると持ち上げて、また細く息を吐いた。しなやかな身体を大きく後ろに伸ばして、仰向いたまま手のひらで顔を覆う。
「あーあ。何か気ィ抜けちゃったなあ」
 天城には見えないと知りつつ、俺も頷いた。確かに結婚は一つの区切りであった。萩原にとっても、俺たちにとっても。
 多分、俺よりも天城の方が萩原への執着は強いのだ。約十年。天城にとっては長い十年だったに違いない。
 せめてもの労りとしてキッチンで珈琲を入れて戻ってくると、突如勢い良く天城が上体を起こした。切れ長の黒い瞳と視線が合って、思わずマグカップ両手に静止する。
「野々村、セックスしようか」
「……は?」
 筋肉が硬直する。頭が真っ白になるあまりに足が縺れて、珈琲がマグの淵から飛び出しそうになるのを何とか押しとどめ、しかしそれ以上どうしたらいいかがわからずに再び停止。
「何、自棄になってるんだ?」
 時間を置いて吐き出した声はやや裏返っていた。惨劇を避けるため、ローテーブルの上にそそくさとマグカップを置く。
「自棄、ねえ」
 これが自棄でなかったら何だと言うのだ。
 天城は美人だ。これは誰もが認めるところで、性格だってまあ一見問題はない。それでも今まで浮いた噂一つなかったのは、ひとえに彼女が萩原を想っていたからだ。
「とりあえず、座れば?」
 俺の戸惑いを他所に、天城は落ち着いた仕草でマグカップをさらって中身を口に含んだ。それから横目でこちらを見やり、己の隣りを指し示す。
 説明するから、という言外の台詞を感じ取って、ひとまず思考を保留にする。やや距離を置いて俺が腰掛けるのを待って、天城はつまらなそうに息を吐いた。
「そもそもどうして朝子があんたを結婚式に呼んだんだと思う? こう言っちゃ何だけど、晴れの日にわざわざ呼ぶほどの『親しい友人』とはお世辞にも言えないでしょう」
「それは俺も不思議だったけど」
「つまり、朝子はあたしとあんたがオツキアイしてると疑ってるわけ。あるいはそう期待している、かな」
 億劫そうに忌々しそうに彼女はそう告げた。それは、何と言うか。
「……よりにもよって?」
 捻り出した言葉は情けない響きを帯びていて、辟易とする。
「よりにもよって」
 と天城は重々しく頷き、俺はどっと粘度を増したように感じる空気を呑み下した。
 どういう誤解だ、それは。いや、わからないではないが、わかりたくない。
 確かにその手の誤解を受けることがないわけではなかった。男嫌いの気のある天城が、唯一親しいつき合いをしている異性。いつの間にやらそういうポジションに収まってしまっていた。
 けれど、萩原は俺たちが誰を好きだったのかを知っているのに。
「がっくりくるでしょー。他の誰に勘違いされてもどうでもいいけど、朝子本人に勘違いされると。まあ、所詮朝子にとっては過去の話だし、あたしも極力それらしい態度は取らないようにしてたから、まさかこうも諦め悪いとは思わなかったんだろうけど」
 珈琲を一口含み、天城が間延びした声を紡ぐ。
「それで『セックスしよう』に繋がるわけ? 何も誤解を事実にしなくったっていいだろ」
「煩わしい親戚を黙らせるには案外いい手段じゃない? 可愛いカノジョの一人でもつくっているならこんなこと言わなかったけど、あんたも結局忘れられなかったでしょう。あの子が誰と恋をしても、結婚をしても。何も変わらない」
 それに、と。天城が口を噤み、目を上げる。おもむろに厳かに、その言葉を告げた。

「──朝子がそれを望むなら」

 幸せを望まれるなら、そのカタチで幸せを演じるのだと。
「……馬鹿げてる」
 首を振った。拒絶というほどの力もなく。
 萩原が天城の幸福を望んでいるのは確かだろう。それは自分が彼女を選べなかったから、などという打算ではなく、ただ純粋に天城に幸せになってほしいからに違いない。だからこそ、賛同はできなかった。
「それじゃあ萩原の気持ちを踏みにじることになる」
 彼女が喜ぶから偽りを演じるなんて、本末転倒も良いところだ。
 しかし、天城は満足そうに口の端をつり上げて笑う。
「わかってるじゃない。これは朝子のためじゃなくて、あたしたちのためだ。それ以上でもそれ以下でもない。理解してるでしょう。あたしたちは最初から、自分たちの思う朝子の幸せを現実にしていただけだった」




「盲目もここまでくると狂気だな」
 吐息の隙間にそれだけを言い、目を伏せる。笑いさざめく音が落ちる。
 愛情なら、きっとあった。親しみも敬愛も憧れも。けれど自分たちの間にあったのは間違っても恋情ではない。
「恋なんて皆狂気の沙汰なのに?」
 薄い硝子を鳴らすように軽やかな音階で天城は謳う。愉快そうに告げる唇が肩口に齧りつき、結局同類相憐れむということか、と的外れな溜息を吐いた。

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